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■横浜鎖港問題 【江】文久3年9月15日、在府老中たちは、前日の横浜鎖港交渉の顛末を上京中の老中酒井忠績(雅楽頭)に報せるとともに、(1)鎖港談判は穏やかにとの朝命及び(2)過激派鎮撫に役立つような朝命を求めるように指示しました。 老中は書簡の大意は・・・ <14日来、米・蘭公使へ横浜鎖港談判に及んだものの公使では決定できず、本国政府と英仏にも相談せねばならないという答えだった(こちら)。英仏へも早々談判のつもりである。条理を立てて信義を失わないように穏やかに談判する心得であるが、過激の徒は悪評をたてるだろうし、朝廷でもその噂をきき、関東因循の鎖港だといって万一厳しい攘夷の沙汰がでるようなら関東は実に処置に苦しむことになる。このうえは鎖港談判は穏やかにするようにとの書面(朝命)でもなくては、過激の輩は皇国のためをかえりみず、乱を好むものなので制御もできず、暴発により天下が乱れては残念至極だと深く心配している。是非、過激の輩の鎮撫になるような朝命を発していただきたい。また、すでに鎖港談判にとりかかっているので監察使の東下はみあわせてほしい>(『七年史』収録の閣老書簡を要訳byヒロ) <ヒロ> この書簡が京都に届いたとき、入れ違いで酒井はすでに江戸に向けて京都を出発していました。所司代が酒井の行列を追わせて蒲宿で書簡を渡せたのは25日のことになります(こちら)。 なお、『七年史』収録の書簡には日付がありませんが、『徳川慶喜公伝』の15日説をとりました。 関連:■開国開城「政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」 」■テーマ別文久3年:「横浜鎖港交渉」 参考:『七年史』ニ(2001.9.28) ■春嶽再上京 【京】文久3年9月15日、軍艦奉行勝海舟の塾生近藤長次郎が、海舟の使者として福井に到着し、松平春嶽に上京を促しました。 福井に到着した長次郎は勝の書簡を出して春嶽に謁見を請いました。側用人島田近江に来意を尋ねさせたところ、長次郎は以下のように説明したそうです。 <江戸においては、過日来、春嶽殿の御上京があるとの専らの噂でありました。ことに板倉周防守(老中板倉勝静)殿は、今度、酒井雅楽頭(老中酒井忠績)殿に上京を命じられた時、雅楽頭着京の頃には春嶽殿も上京されているから・・・等々申されたとのこと故、酒井殿は春嶽殿に諸事御相談に及び、なにかと御周旋も依頼されるつもりで上京されたとのことです(こちら)。ところが春嶽殿は未だ上京されておりませんでした。酒井殿は、定めて御都合もおありなのだろうが、何分にも早々に御上京されたいと希望され、内密に勝に委託されたようです。春嶽公にはくれぐれも速やかに御出発を願います> 勝の書簡は以下の通り。 「(前略)微臣儀、先月廿八日俄に雅楽頭(老中酒井忠績)上京・(天皇の)御機嫌伺いの為め御使い仰せ付けられ候に付、附添上坂仕るべき旨仰せ渡され、海上滞り無く、当九日着坂仕り候。 当六月 上様御帰東以来、江都一定の議御座無く、空論紛々、諸役遷伝無虚日、形勢は日々危険、唯々累卵の如くに御座候。此節に至り候ては、板倉初め大小監察五六輩大に苦心仕り居り候えども、元来定論相立たざる傍議に相妨げられ候のみ。此程京師変動御座候信(=8.18の政変に関する通信)相達し候節 上様(=家茂)御直に御所の處如何にも御心配思召され候間、速に御上洛遊ばされたき思召しの由、閣老へ仰せ御座候哉。小臣輩■に拝承、実に御誠実の英意と有り難く感佩涕泣仕り候義に御座候。右に付、雅楽頭、即日御使い仰せ付けられ、其の後、四五日を経候て、諸役へ遠からず御上洛之有り候思召しの由、仰せ出され候處、役々議論兎角一定仕らず、是は全く天下の形勢不案内より相生じ、且つ当今将軍の御職掌如何と申す事を相忘れ、此の如く御英意も下に貫通薄く相成り候哉と慨嘆仕り候。 関東にて閣下御上京の風聞盛んにて既に御発途と承り居り候處、未だ実説を得ず、内々閣老初め有志の者は一日千秋の思いを仕り居り候儀にて御座候間、島津三郎(=島津久光)其の他上京前にも御憤発、御発途(=出発)御座候様存じ奉り候。何分有志輩の着眼此の一事にて、其の上高明正大の御卓識を以て御誠実に天下の形勢 叡聞相成り候様仕りたく、大凡(おおよそ)天下は唯一是のみ瑣々たる粉擾は則士気を鼓舞仕り候好機会と相成り、今此の時御憤発御座なく候ては、是迄御報国の御苦心一途に画餅と相成り申すべく哉。更に閣下の為、相惜しみ候のみに之無く、皇国の御為、深く相惜み候義に御座候。雅楽頭も内実(春嶽の)御上京を相待ち候事にて、(春嶽が上京していないので)既に此の周旋手段を失い候と歎息仕り居り候。 関東にて鎖港御談判(=横浜鎖港交渉のこと)の説相起り候も実に御據(よんどころ)無き説にて、上様、当夏御直の御請、暫時に反覆仕り候を歎き候より相発し候事に御座候。其の上、諸有司、何分困難相極め申さず候ては憤発之無く、仰せ出され旁も御座候えども、矢張り旧より因循空論消時日内に、関東にても閣下・島津家・細川家其の他へも御使いにて御相談御座候哉。有司は至極感佩其の成功を相待ち居り候義に御座候。然るを(春嶽が)御憤発御延引仕り候はば、大に失望、孰?か皇国興起の任に当り申すべからず哉、且つは諸家へ信を御失い遊さるべく歟(か)。昨年御上京の節拝承仕り候御意伸し候は此の時と愚考仕り候。(後略)」 (出所:『続再夢紀事』ニ収録の書簡の候文をさらに書き下しby管理人。管理人は素人なので、著作の参考にするときは原典にあたってくださいね) <ヒロ> 春嶽は、朝廷から、3月に総裁職を無断辞職・帰国した際の逼塞処分を理由に、上京を許されていませんでした。(こちら) 関連:■テーマ別「春嶽の総裁職辞任」「越前藩の挙藩上京(政変)計画」「松平春嶽再上京」 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 参考:『続再夢紀事』ニ(2004.12.2) ■七卿 【長】文久3年9月15日、長州藩主毛利敬親は三田尻の七卿(三条実美、三条西季知、東久世道禧、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉)を訪ねました。 関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」■長州藩日誌文久3 参考:『修訂防長回天史』 |
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